「北極をめぐる争い[i]」が、今、大きな話題となっている。事の発端は、何といっても地球規模の気候変動である。北極圏の温暖化が世界的影響を及ぼす深刻な環境の変化を引き起こしている一方で、北極海の海底には貴重な天然資源が埋蔵されていると考えられており、こうした資源は北極圏沿岸国に限らず、多くの国々の関心を引きつけている。さらに、氷の融解が進むことによって新たな航路や海上交易路の開拓が見込まれ、資源や主要市場へのアクセスが短縮される可能性も高まっている。その結果、これまで北極ガバナンスに関する多国間協議の中核的課題とされてきた地球規模の気候調整機能としての北極保護は、次第に政治的重みを失い、代わって地政学的・経済的利害が前面に押し出されるようになっている。
北極圏とその陸域
北極については、国際的に合意され、一般に法的効力を有する定義は、いまだ存在していない[ii]。その中で広く用いられている定義の一つが、北極圏監視・評価プログラム(Arctic Monitoring and Assessment Programme:AMAP)によるものである。それによると、北極圏とは、北極圏(北緯 66度32分)以北の陸域および海域、あるいはアジアでは北緯 62度以北、アメリカでは北緯60度以北にある地域を指す。場合により、政治的境界や永久凍土(パーマフロスト)の分布範囲といった追加的な基準が考慮されることもある[iii]。北極圏国、いわゆる「Arctic 8(北極8か国)」には、デンマーク(グリーンランドを含む)、フィンランド、アイスランド、カナダ、ノルウェー、ロシア、スウェーデン、米国の8か国が含まれる。このうち、デンマーク、カナダ、ノルウェー、ロシア、米国の5か国は北極海に面しており、北極5か国と称される。アイスランドは北極圏のすぐ南に位置するため、北極海に直接面する沿岸国には含まれない。
北極の中心には、これまで年間を通じて海氷に覆われてきた海域である北極海が広がっている。北極の面積は約1650万平方キロメートルで、地球の表面積の約8%を占めている。
- カナダ領海を通る北西航路(NWP)、
- 北極海の中央部の水域(つまり国際水域)を直接横断する横断航路(トランスポーラル・ルート)、そして
- ロシアおよびノルウェー沿岸の北側を通る北東航路(NOP)
の三つの航路が北極海を横断する代表的な北極横断ルートである。この北東航路(NOP)の一部を成すのがロシアが管理する北方航路(NSR)[iv]であり、同国の沿岸に沿って排他的経済水域(EEZ)内を通過している。
約500万平方キロメートルに及ぶロシアの北極圏は、ロシア西部のバレンツ海から東のベーリング海峡に至るまで総延長2万4,140キロメートルにおよぶ海岸線に沿って広がり、米国アラスカ州と国境を接している。北極圏全体の海岸線の半分以上を占める[v]ことから、ロシアはしばしば「北極圏の覇者」[vi]とみなされており、人口面においても、北極圏全体の約400万人の住民のうち、およそ70%がロシアに居住しており、そのうちの約10%が先住民族である。
北極圏のガバナンス
南極とは対照的に、北極圏は地理的に複雑なため、包括的な国際条約体制は存在していない。北極圏のガバナンス構造は、沿岸諸国それぞれの国内法や規制、国際条約、さらに国際慣習法を基盤として成り立っている[vii]。これらの規制の大部分は、北極圏の気候および環境保護、領土権主張の解決手続き、ならびに研究、科学、経済における北極圏諸国の協力と行動原則に関するものである。こうした規制的枠組みの中でも、とりわけ重要なものとして、1982年に採択された国連海洋法条約(UNCLOS)および、1996年に設立された北極評議会(Arctic Council)が挙げられる。
国連海洋法条約(UNCLOS)は、北極圏に関する包括的な国際法上の枠組みを定める条約である。北極圏諸国の中で唯一、米国のみが、カナダとの間で北西航路(NWP)の法的地位をめぐる対立があることを理由に、同条約をいまだ批准していない。カナダは北西航路を自国の主権水域と位置づけている。国連海洋法条約(UNCLOS)は、各国の領海および沿岸から 200 海里の海域に及ぶ排他的経済水域(EEZ)の境界を規定している[viii]。排他的経済水域では、沿岸国が独占的に資源を利用する権利を有する。国連海洋法条約(UNCLOS)の最も重要な規定の一つは、第 76 条(大陸棚の定義)であり、これは、五つの北極沿岸国に対して、海底の地質構造が「大陸棚の自然な延長」であることを科学的に証明できる場合に、排他的経済水域を拡大する権利を与えている[ix]。これに関する申請は、大陸棚限界委員会(CLCS)で審理、決定される。これにより沿岸国は、大陸棚を探査し及びその天然資源を開発するため、大陸棚に対して主権的権利を行使する(UNCLOS 第 77 条)。北極海には貴重な天然資源が埋蔵されている可能性があることから、多くの北極圏沿岸国がCLCSに申請を行っている。現在、ロシアが、ノヴァヤ・シビリ島から北極海中央部、北極点の下、グリーンランド付近まで 1,800 キロメートルにわたって伸びるロモノソフ海嶺の領有権を主張しており、その審理が行われている。この海域には、石油やガス、レアアース、プラチナ、ダイヤモンド、銅、亜鉛など、数多くの資源が埋蔵されていると考えられている。しかし、北極海の地質調査はまだまだ進んでいるとは言い難く、これまでの資源の種類や埋蔵量に関する推定値は、その多くが未確認のものである[x]。
北極圏のガバナンスに関する最も重要な政府間フォーラムは、北極評議会である。この評議会には、NATO加盟国である米国、カナダ、アイスランド、ノルウェー、フィンランド、グリーンランドを含むデンマーク、将来NATO加盟が見込まれるスウェーデン、そしてロシアがメンバーとして参加している。また、これらの加盟国とは別に、先住民族を代表する六つのいわゆる「常任参加者(Permanent Participants)」も参加している。北極評議会は、北極のガバナンスを主として北極沿岸国(北極圏国)に委ねることを目的として設立が進められた。
当初、北極評議会はこの地域を主として科学的研究の対象として捉えていた。設立当初の評議会は、「政治的な意思決定機関というよりも、むしろ科学的な枠組み[xi]」であり、閣僚が会合に参加することはまれであった。しかし、気候変動が地球規模で影響を及ぼすようになるにつれ、北極圏に対する国際的な関心は高まっていった。北極沿岸国の「極地の裏庭」で、非北極圏諸国が独自に活動することを防ぐため、北極評議会は、非北極圏諸国をオブザーバーとして招聘した。その結果、現在ではドイツ(1998 年以降)のほか、12か国がオブザーバーとして承認されている[xii]。地政学的な重要性から2013年には中国、インド、日本、シンガポール、韓国が参加した。アジア諸国、特に自らを地理的に「北極圏に隣接する国」(Near-Arctic State)[xiii]と自認する中国が、これまでにも長年にわたりオブザーバー参加を強く求めてきたこともあり、北極評議会は、これらアジアの国々を受け入れることで、自らの枠組みの中に組み込むことを狙ったのである。欧州連合は、北極圏の重要な関係者として、オブザーバーとしての地位は持たないものの、評議会会議に参加している。ほとんどのオブザーバー国および欧州連合は、ここ数年、独自の北極圏戦略を発表しており[xiv]、その中にはドイツ(2013/2019)、中国(2018)、インド(2022)も含まれる。
北極評議会は、北極圏諸国が互いに、また先住民族との間で、平和的かつ建設的な利害調整を図ることを目的に設立された。評議会の活動を円滑に進めるため、安全保障および軍事政策に関する問題は意図的に議題から除外された。これにより、政治的な危機が発生した場合でも、この地域は「低紛争状態」を維持することが意図され、これは一般に「北極例外主義(アークティック・エクセプショナリズム)」と呼ばれている[xv]。その結果、評議会の活動は、気候と環境の保護、北極圏の経済発展、科学協力に集中することができた。その成果として、北極評議会は、捜索・救助分野における協力に関する法的拘束力を持つ協定(2011年)、海洋石油汚染への対応に関する協定(2013年)、および国際的な科学協力の強化に関する協定(2017年)を策定している。
北極評議会の制度設計によって生じた安全保障上の空白[xvi]を補うため、2010年にはノルウェーと米国の主導により、北極圏諸国に加えてドイツ、フランス、オランダ、英国も参加する「北極圏安全保障軍事会議(Arctic Security Forces Roundtable)」が設立された。また2012年には、北極圏諸国によって、安全保障分野における対話の場として「北極防衛参謀長会議(Arctic Chiefs of Defense Staff)」が創設されたが、これは法的拘束力を持たないものであった。さらに、NATOはロシアをNATO-ロシア理事会に招待し、北極圏における軍事安全保障についても意見交換を行っていた。しかし、2014年にロシアが国際法に違反してクリミアを併合したことを受け、すべての安全保障政策フォーラムにおけるロシアとの協力は停止されることとなった。
気候変動と北極圏をめぐる「地政学的な関心の高まり(Geopoliticization)」
「気候システム全体の変化の指標」[xvii] として、北極圏は地球規模で重要な役割を果たしている。数十年前までは、北極の厳しい気候条件が、この不毛な地域を事実上、地政学的な関心から守ってきた。しかし、気候変動と北極圏の急速な温暖化により、状況は大きく変化した。ドイツのアルフレッド・ウェゲナー極地海洋研究所(AWI)は、この気温の上昇により、北極海および周辺の陸地の広範な地域が、「高い確率で2050年の夏までには氷のない状態になる」と予測している[xviii]。これに伴う世界的な海面上昇や、永久凍土および氷河の融解は、インフラや生態系に深刻な影響を及ぼす[xix]。その影響はすでにアラスカ、カナダ、そして特にシベリアで顕著に現れている。町全体が崩壊の危機に瀕し、交通網が崩壊し、石油やガスのパイプラインなどの供給ネットワークが不安定になっている。こうした状況は、生産・供給網の途絶や、食糧・水不足を引き起こしている。
気候変動は、環境に関わる問題だけでなく、安全保障上の問題も引き起こしている。その影響は、例えばロシアにも及んでいる。モスクワの中央政府からすれば、ロシア北岸沿いの海氷が融解することは、極北における自国の安全保障が失われることを意味する。なぜなら、海氷は何世紀にもわたり、ロシアの北の国境へのアクセスを阻む自然の防壁として機能してきたからである。この「主観的に感じる安全保障の喪失」は、伝統的にロシアに深く根付いている「包囲されているという考え方」をさらに強めている[xx]。こうして、気候変動を国家安全保障への脅威とみなすロシアの解釈は政治的な意味を持ち、モスクワの中央政府にとって、北極地域の(再)軍事化を正当化する根拠となっている。
北極をめぐる問題が地政学的・安全保障的な性格を強めている背景には、新たな経済・通商上の可能性も大きく影響している。気候変動によって北極へのアクセスが容易になると同時に、貴重な資源が露出しつつあるからだ。ただし、存在する資源の種類や量については、正確な知見はほとんど得られていない。ロシアおよびノルウェー沿岸を通る北東航路、カナダの島嶼群を通過する北西航路、さらには現在も氷に覆われている北極海中央部を横断する経路(トランスポーラル・ルート)など、新たな海上・交易ルートが出現しつつある、少なくとも長期的にはそのように想定されている。これらの航路は主要マーケット間の距離を大幅に短縮する可能性があるだけでなく、資源開発と結びついた北極域内交通において、ますます重要な役割を果たす可能性がある[xxi]。これにより、北極圏諸国は将来の北極海における海上交通およびその通商において影響力を強めている。これは、北極圏諸国にとって大きな課題ではあるが、それ以上に中国、インド、日本などといった新たなプレーヤーを呼び込むことにもなっている。これらの国々は、経済的のみならず政治的な関心も寄せており、多くの国が独自の北極研究拠点を設置し、北極海の国際水域で海洋調査を実施することで、北極における戦略的な立ち位置を確保しようとしているのだ。
北極は、地球上で最大規模の資源が眠っていると見られているが、その大部分については未調査でまだ何も分かっていない。それでも、石油や天然ガスといった膨大なエネルギー資源(その85%は大陸棚に存在するとされる)[xxii]に加え、金、ダイヤモンド、亜鉛、銅、プラチナ、さらにはレアアースなどの鉱物資源が存在すると推定されている[xxiii]。しかし、これらの鉱物資源が確認できるのは、これまでのところ北極の陸域においてのみである。北極海の海底、たとえばロモノソフ海嶺のような大陸断片に鉱物資源が存在する可能性は高いと考えられているが、その採掘は長期的には採算が取れず、技術的にも困難である[xxiv]。2000年代に行われた数多くの資源ポテンシャル調査、特に米国地質調査所(USGS)[xxv]の研究などを契機として、北極資源をめぐっては一種の「ブーム」のような状態であった。その後、世界的な資源需要の高まりを背景に、資源の探査・開発に対する国際的な関心は大きくなっていった[xxvi]。北極圏諸国は、こうした動向を自国の「北の裏庭」における問題として、強い警戒感をもって見ている。特にロシアは、自国の排他的経済水域(EEZ)の外側で資源争奪が起きることを懸念している。そのためモスクワ中央政府は、大陸棚限界委員会(CLCS)を通じて、現行のEEZを超える範囲で領有権を主張している。北極はロシアにとって、「国家の不可欠な構成要素[xxvii]であり、地政学的・経済的に極めて重要な地域」と位置づけられている。
前述したとおりロシアは、全長1,800キロメートルに及ぶロモノソフ海嶺に対する領有権を主張し、2020年に発表した北極戦略ではこれを全面に打ち出している。すでに2007年には、チタン製のロシア国旗を海底に設置し、この海域の領有権を象徴的に主張した。しかし、同様の主張はデンマークおよびカナダも行っている。大陸棚限界委員会がロシアに不利な決定をした場合、このことが紛争に発展する可能性がある。決定自体は数年先と見込まれているものの、ロシアが国際法上の判断から距離を取りつつある兆候はすでに見られる。仮に委員会の判断がロシアに有利なものとなった場合でも、北極に利害関係を持つ他国がロシアにどのような姿勢を取るかは不透明である。
ロシアの管理下で、これまで国際水域であった北極海の大部分が事実上「国有化」されることになれば、資源の無秩序かつ非持続的な開発を招くだけでなく、北東航路における自由な航行が大きく制限されることになる。これに強く反対しているのが米国と欧州連合であり、両者はそこにロシアによる重大な紛争誘発および威圧の可能性を見ている。自らを「北極に近接する国家」と位置づける中国との間でも、利害の衝突が生じうる。中国は、北極のガバナンス形成に関与することを目指し、極北における影響力を拡大しているが、それは北極海が中国にとっても戦略的に重要な航路であるからである。中国の経済戦略プロジェクト「極地シルクロード」構想は、「輸送経路の多様化と自国の供給安全保障の強化」を目的としており[xxviii]、その一環として、特に紛争時には、重要な補給路を軍事的に確保するため、北極海における中国海軍の活動が活発化する可能性も指摘されている。
また、カナダ北部を通過する北西航路の法的地位も、緊張要因となっている。この航路は国際的にはまだカナダ領として認められていないが、カナダはこれを自国の主権水域とみなしている。ところが、米国および欧州連合はこれを基本的に認めていない。カナダは北方の島嶼地域を、自国が主権的に管理・統制できる区域と考えているのに対し、米国と欧州連合は、ここは大西洋と北極海を結ぶ国際水域であり、船舶の通過に開放されていると主張している[xxix]。ドイツの北極政策指針も、既存の航行および通過の権利を守る必要性を強調している。そこでは、「この地域における既存の地政学的緊張に対処し、北極圏における利害対立や潜在的な危機を未然に防ぐ」ことが重要であると述べられている[xxx]。
今後航行可能となるこれらの航路は、利害対立の対象ともなり得る。2019年5月、当時の米国国務長官マイク・ポンペオは北極評議会において、新たな航路を「21世紀のスエズ運河やパナマ運河」[xxxi]と位置づけた。同時に、中国に対して、同地域でのインフラ整備の取り組みやロシアとの海路拡張に関する協力は、南シナ海と同様に、北極圏を新たな領土権争いの場に変えるリスクがあるとの警告を発している[xxxii]。
北極圏の安全保障
北極評議会と安全保障政策フォーラムは、北極圏を紛争から守るべき組織として存在していたが、2014年のクリミア併合後、ロシアは安全保障政策上の対話から排除された。北極圏をめぐる緊張は、2000年代初頭にロシアが北極圏で軍事近代化計画を開始した頃からすでに高まりを見せていたが、それでも当時は、まだ発足間もない北極評議会がロシアの北極政策に前向きな影響を及ぼすまで猶予を与えたいという願望から、西側諸国およびNATOは慎重な姿勢を取っていた。
ロシアの外交政策は北極圏においても「反射統制を利用した安全保障政策の優位性」によって特徴づけられているため[xxxiii]、モスクワの中央政府は、気候変動が国家安全保障に及ぼす影響と、2014年以降の西側諸国との関係悪化を受けて、北極圏における自国の利益を軍事的に確保する必要性を感じていた。
その結果、ロシアの北方沿岸では、冷戦時代に建設された数多くの軍事基地が再整備、拡張され、NATO領域にも到達可能なS-400中距離地対空ミサイルなど、核搭載も可能な最新鋭の兵器が配備された[xxxiv]。ウラジーミル・プーチン大統領は、ロシア北西部ムルマンスク州のコラ半島に拠点を置く戦略的原子力潜水艦で構成される北方艦隊の近代化に特に力を入れており、海氷の融解に伴い、NATOにとって新たな脅威となる可能性がある。これにより、北方艦隊は北大西洋へのアクセスが容易になり、とりわけグリーンランド、アイスランド、英国北端に挟まれた海洋の要衝に接近しやすくなる。危機が発生した場合、ロシアはこのいわゆるGIUKギャップで、欧州と北米を結ぶ海上交通を妨害するだけでなく、大西洋の海底に敷設された重要インフラ、特に通信ケーブルに深刻、あるいは長期的な損害を与える可能性がある。
ロシアによる北極の軍事化が進む中、西側諸国、とりわけ米国とNATOは、これまでよりも断固とした対応を取るようになった。ロシアの活発な軍事活動に対する懸念を強めているスウェーデンやフィンランドといった欧州の北極諸国は、ロシアのウクライナ侵攻を機に、安全保障政策の転換に踏み切った。これまで非加盟だったスウェーデンがNATOに加盟すると、8か国ある北極圏国家のうち7か国がNATO加盟国となり、北極圏におけるロシア海軍の行動の自由は制限される可能性がある。2021年春以降、ノルウェーのオーランド空軍基地にはB-1爆撃機を備えた米軍の爆撃機部隊が配備されている。米国はまた、北極圏における防衛能力の構築を目的とした北極圏軍事プログラムを加速させている。米国軍各部隊および沿岸警備隊は、それぞれ独自の北極圏戦略を策定している。NATOもまた、「ロシア、さらには中国への対抗軸」として、より明確な姿勢を打ち出している[xxxv]。ロシアのウクライナ侵攻開始から数か月後に発表された戦略構想の中で、NATOは、「同盟国への軍事的補強と北大西洋における航行の自由を妨害する」ロシアの能力を「同盟に対する戦略的挑戦」であると位置づけた[xxxvi] 。同時にNATOは、中国が政治・経済・軍事的手段を用いて影響力を拡大し、ルールに基づく国際秩序を弱体化させようとしている点にも警鐘を鳴らしている。欧州連合も、2021年に発表した北極戦略の中で同様の見解を示しており、北極圏を、中国、ロシア、米国が影響力を競い合う地政学的文脈の中に位置づけている。そのため、北極圏問題における包括的な関与は、欧州連合にとって地政学的な必然であると考えられている。
ロシアがウクライナに侵攻するずっと前から、北極圏をめぐるこの「地政学的関心の高まり」は北極評議会にも影響を与えてきた。2019年5月にフィンランドのロヴァニエミで開催された北極評議会閣僚会議で、当時のポンペオ米国務長官は、北極圏を「世界的な権力と競争の舞台」と表現した[xxxvii]。ポンペオ氏によれば、これにより「北極圏の利益と領土に対する新たな脅威を伴う、新たな戦略的関与の時代」が始まったというのだ[xxxviii]。このようにして、トランプ政権(訳注:第一次トランプ政権)は、北極圏の地政学的意味合いを強調し、建設的な交渉を困難にした。一方、バイデン政権は、ロシアのウクライナ侵攻後も、依然として北極評議会に一定の期待を寄せているが、利害の対立により、ロシアとの協力は依然として停滞したままである。
今後の見通し
北極圏を取り巻く状況は、数年前に比べてより緊張が高まっており、今後もさらに高まり続ける可能性がある。ウクライナでの戦争が続く限り、状況の改善は期待できない。2022年3月以降、ロシアが議長国を務める北極評議会では、政治的な活動が停止したままである。2023年5月には、ノルウェーが議長国に就任する予定である。
中国が北極圏で積極的かつ主導的な役割を担おうとしていることも、緊張緩和にはつながらない。こうした中、長い間、北極圏への関与に消極的だった米国は、今後の10年間を見据えて米政府が策定した新たな北極戦略の枠組みにおいて北極圏の安全保障と秩序の維持に本格的に関与し始めており、現在、北極圏について「効果的に競争し、緊張を管理する(effectively compete and manage tensions)[xxxix]」ことを目指している。この新戦略は、①安全保障、②気候変動と環境保護、③持続可能な経済開発、そして④国際協力とガバナンスという四つの柱で構成されている。安全保障分野において米国は、軍事的抑止、北極におけるプレゼンス(訳注:presence=常続的な存在・展開)、ならびに意図せざるエスカレーションのリスクを低減するため、同盟・パートナー国との共同安全保障アプローチに依拠している[xl]。ロシアと中国による新たな大国政治は、両国間の紛争も含め、長期的な紛争へとつながる可能性を秘めている。
北極圏での協力に関する現在の課題を踏まえ、米国は、北極地域におけるあらゆる活動の活発化に対処できるよう、北極評議会を含む北極関連機関を引き続き支援していくことを表明している。このように米国の北極戦略はとりわけ、国際的な規則、規範、基準の遵守を中核に据えている[xli]。
米政府は、ロシアを北極評議会から長期にわたり排除することが、米国にとっても戦略的な不利益をもたらしかねないことを認識している。その理由の一つは、アラスカ州の民間および軍事インフラが脆弱であることであるが、これはインフラ整備、沿岸警備、海底資源ポテンシャルや気候変動の調査に不可欠な砕氷船が不足していることにも起因している。米国も中国も保有している砕氷船は僅かに2隻のみであり、対するロシアは約50隻を保有している[xlii]。インドですら小型とはいえ6 隻の砕氷船を運用しているのだ。もう一つの理由として挙げられるのは、ロシアを再び北極評議会のルール体系に組み込むことが米国にとって重要である点である。これは、ロシアが、中国やインドなどの非北極圏国を正会員として迎え、米国と競合する北極圏組織を独自に設立することを防ぐことを意図する。ウクライナでの戦争が始まって以降、ロシア、中国、インド間の北極圏協力は強化されており、多くの国々が、ロシアと西側諸国との間にできた亀裂を利用して北極協力に関する利益を得ようと積極的に動いているのは明らかである[xliii]。一方で、中国は、北方航路への恒久的なアクセス権を確保し、長期的に北極圏地域への影響力を行使することを狙っている。他方で、とりわけ新興国にとっては、依然として化石燃料への依存が大きいことから、北極における資源へのアクセスをめぐりロシアと合意することが利益となる。その見返りとして、モスクワの中央政府は西側の制裁下において重要な投資、とりわけ技術協力を期待している。
北極圏に面する七つの西側諸国、「北極7か国」は、北極圏最大の国であるロシア抜きでは北極圏の協力は意味をなさないという点で理解の一致を見ている。というのも、気象サービス、沿岸警備活動、捜索・救難活動はいずれも、多かれ少なかれロシアとの協力に依存しているからである。同様のことは、世界的に重要な極域の気候研究プログラムや海氷監視にも当てはまる[xliv]。2022年6月、北極評議会の活動の一環として、ロシアの参加なしでも継続できるいくつかの研究プロジェクトが再開された。現在、「北極7か国」は、北極圏に関する問題について、北極圏を管轄する国連などの国際機関を通じてのみロシアと協議することができる。西側北極諸国は、ロシアを除外した新たな機関を設立したり、北極評議会を自らのものとしてロシアを恒久的に排除したりすることで、ロシアを挑発することを意図的に避けている。
北極評議会は現在、おそらくその歴史上最も深刻な危機に直面している。人類が直面する気候変動の課題を考えると、建設的な北極圏の協力関係への回帰が急務であるが、現時点ではそれはほぼ不可能である。ウクライナでの戦争の行方が、この問題において重要な鍵を握っている。もしロシアが戦争に勝利すれば、ルールに基づく国際秩序は深刻かつ長期的な打撃をうけ、西側北極諸国との協力は恒久的に不可能となるであろう。ロシアが敗北し、ウクライナの完全な主権が回復された場合には、北極評議会における協力は再び可能となり得るが、その前提として、ロシアがルールに基づく国際秩序を尊重することを約束する必要がある。そのためには、ロシアにおける政権交代が不可欠であるが、現時点ではその見通しは立っていない。
結局のところ、ロシア自身も北極における多国間協力が自国にとって必要であることを認識している。しかし、ロシアの指導部は、国際法を無視したウクライナ侵攻という事態に対する西側の反応を著しく過小評価し、クリミア併合後と同様に、西側北極諸国が北極評議会での交渉を継続すると見込んでいたと考えられる。今後ロシアは、北極評議会を介さずに自国の北極戦略を実行しようとするだろう。しかし、その際には、中国の支援に頼らざるを得ないものと予想される。
本稿は、コンラート・アデナウアー・シュティフトゥング(KAS)により2023年4月18日発行された『Auslandsinformationen(海外情報)』2023年第1版『Die Arktis – Zwischen Konflikt und Kooperation(北極圏 ― 紛争と協力の間で)』の中で書かれたドイツ語の記事『Von einer Zone des Friedens zum Konfliktherd? Die geopolitische Bedeutung der Arktis(平和だった地域は何故紛争の舞台に?北極圏の地政学的な重要性)』を日本語に翻訳したものである。
[i] Paul, Michael 2022: Der Kampf um den Nordpol. Die Arktis, der Klimawandel und die Rivalität der Großmächte(北極圏をめぐる争い。北極圏、気候変動、そして大国間の対立「仮訳」)、フライブルク・イム・ブライスガウ
[ii] ドイツ北極事務所2020: Governance in der Arktis, Fact Sheet(北極圏のガバナンス、ファクト・シート「仮訳」)、アルフレッド・ウェゲナー研究所(AWI)2020年5月発行、1頁:https://bit.ly/3HRyjVg [2023年2月8日閲覧]
[iii] 同上、1 頁
[iv] ドイツ北極事務所 2019: Schifffahrt in der Arktis(北極圏における海運、ファクト・シート「仮訳」)、アルフレッド・ウェゲナー研究所(AWI)2019年8月発行、2頁:https://bit.ly/3YdrO67 [2023年2月8日閲覧]
[v] Paul, Michael / Swistek, Göran 2021: Russland in der Arktis. Entwicklungspläne, Militärpotential und Konfliktprävention(北極圏におけるロシア。 開発計画、軍事力、紛争予防「仮訳」)、ドイツ国際政治安全保障研究所(SWP)調査 2021/S 19、SWP、2021年10月28日発行、7 頁、https://bit.ly/3x5si23 [2023年2月8日閲覧]
[vi] 同上、8 頁
[vii] ドイツ北極事務所 2020、N. 2、2 頁
[viii] Dolata-Kreutzkamp, Petra 2009: „The Arctic Is Ours“: Kanadas Arktispolitik zwischen Souveränität und Klimawandel(「北極は我々のものだ」:主権と気候変動の間で揺れるカナダの北極圏政策「仮訳」)、フォーカス・カナダ2009年2月号、フリードリヒ・エーベルト財団、3 頁:https://bit.ly/3x8SKru [2023年2月8日閲覧]
[ix] 同上
[x] Damm, Volkmar / Reichert, Christian / Berglar, Kai / Andruleit, Harald 2016: Der arktische Ozean aus rohstoffwirtschaftlicher und völkerrechtlicher Sicht(資源経済および国際法の観点から見た北極海「仮訳」)、Commodity TopNews (コモディティ・トップ・ニュース)52、連邦地球科学・天然資源研究所(BGR)、2016年10月20日発行、8頁:https://bit.ly/40OvM6L [2023年2月13日閲覧]
[xi] Funston, Bernard 2022: Erst Trump, dann Putin: „Für den Arktischen Rat war das der Anfang vom Ende“(まずトランプ、次にプーチン:「北極評議会にとっては、それが終わりのはじまりだった」「仮訳」) インタビュー、ntv、2022年10月22日放送:https://bit.ly/3JRa3VR [2023年2月8日閲覧]
[xii] 北極評議会にはオブザーバーとして、ドイツ、フランス、ポーランド、スペイン、オランダ、英国、イタリア、スイス、日本、中国、韓国、インド、シンガポールで参加している。
[xiii] 中華人民共和国国務院情報局 2018:China’s Arctic Policy(中国の北極政策「仮訳」)、白書、2018年1月26日発行:https://bit.ly/3Yvrdgh [2023年2月8日閲覧]
[xiv] Schulze, Vincent-Gregor 2017: Arktisstrategien Überblick 2017(北極戦略概観2017「仮訳」)、2017年10月発行:https://bit.ly/3JZXasi [2023年2月8日閲覧]
[xv] Cepinskyte, Agne / Paul, Michael 2020: Großmächte in der Arktis. Die sicherheitspolitischen Ambitionen Russlands, Chinas und der USA machen einen militärischen Dialog erforderlich(北極圏における大国。ロシア、中国、米国の安全保障政策上の野望は、軍事対話が必要であることを示唆している「仮訳」)、2020年SWP時報A 50、SWP、2020年6月18日発行:https://bit.ly/3ljElWW [2023年2月9日閲覧]
[xvi] Däumer, Michael 2021: Die Arktis im Strategischen Konzept der NATO (NATO戦略構想における北極圏「仮訳」)、シリウス – 戦略分析誌 第5巻4号、2021年12月3日発行、377-385 頁、ここでは378 頁から引用:https://bit.ly/3x4ae8u [2023年2月8日閲覧]
[xvii] Klein, Max 2020: Die Konfliktlinien in der Arktis: Ökonomie, Klimaschutz und Sicherheit (北極圏における紛争の構図:経済、気候保護、安全保障「仮訳」)、議事録、コンラート・アデナウアー・シュティフティング、2020年2月発効、1頁:https://bit.ly/3x6I3Wu [2023年2月9日閲覧]
[xviii] AWI 2020: Nordpol im Sommer bald ohne Eis(夏の北極はまもなく氷がなくなる「仮訳」)、2020年4月20日発行:https://bit.ly/3YoWstm [2023年2月9日閲覧]
[xix] バーデン・ヴュルテンベルク州政治教育センター 2021: Permafrostböden(永久凍土「仮訳」):https://bit.ly/3Xtbfl8 [2023年2月13日閲覧]
[xx] Paul / Swistek 2021、N. 5、6 頁
[xxi] ドイツ北極事務所 2019、N. 4、1 頁
[xxii] 連邦環境庁 2016: Geologie und Ressourcen der Arktis(北極圏の地質と資源「仮訳」)、2016年2月1日発行:https://bit.ly/3YY8OZx [2023年2月22日閲覧]
[xxiii] Däumer 2021、N. 16、380 頁
[xxiv] Damm ほか2016、N. 10、2 頁
[xxv] Bird, Kenneth J. / Charpentier, Ronald R. / Gautier, Donald L. ほか2008: Circum-Arctic Resource Appraisal: Estimates of Undiscovered Oil and Gas North of the Arctic Circle(環北極資源評価:北極圏以北における未発見の石油・天然ガス埋蔵量の推定「仮訳」), 米国地質調査所U.S. Geological Survey、ファクト・シート、2008-3049:https://on.doi.gov/3JWm1gE [2023年2月10日閲覧]
[xxvi] 連邦環境庁 2016、N. 22
[xxvii] Paul / Swistek 2021、N. 5、7 頁
[xxviii] Paul, Michael 2020: Arktische Seewege. Zwiespältige Aussichten im Nordpolarmeer(北極の海上航路――北極海における相反する展望「仮訳」)、ドイツ国際政治安全保障研究所(SWP)調査 No.14、2020年、SWP、2020年7月23日発行、6 頁:https://bit.ly/3RMdFKG [2023年2月10日閲覧]
[xxix] 同上、18 頁
[xxx] ドイツ連邦外務省 2019: Leitlinien deutscher Arktispolitik: Verantwortung übernehmen, Vertrauen schaffen, Zukunft gestalten(ドイツの北極圏政策指針:責任を担い、信頼を築き、未来を形作る「仮訳」)、2019年8月発行、42 頁:https://bit.ly/3llxdtz [2023年3月18日閲覧]
[xxxi] Hansler, Jennifer 2019: Pompeo: Melting sea ice presents ‚new opportunities for trade(ポンペオ:海氷の融解は、新たな貿易機会をもたらす「仮訳」)、CNN放送、2019年5月7日:https://cnn.it/3YoDNxM [2023年2月10日閲覧]
[xxxii] Sengupta, Somini 2019: United States Rattles Arctic Talks With a Sharp Warning to China and Russia(米国、北極協議の場で中国とロシアに対し強い警告――緊張高まる「仮訳」)ザ・ニューヨーク・タイムズ、2019年5月6日号:https://nyti.ms/3K11zeG [2023年2月10日閲覧]
[xxxiii] Paul / Swistek 2021、N. 5、6 頁
[xxxiv] Däumer 2021、N. 16、381 頁
[xxxv] Paul / Swistek 2021、N. 5、14 頁
[xxxvi] ドイツ連邦共和国 NATO 常駐代表部 2022: Strategisches Konzept der NATO 2022(NATO戦略構想 2022「仮訳」)、2022年6月29日発行:https://nato.diplo.de/2539668 [2023年2月10日閲覧]
[xxxvii] Sengupta 2019、N. 32
[xxxviii] 同上。
[xxxix] ホワイトハウス 2022: National Strategy for the Arctic Region(北極圏に関する国家戦略「仮訳」)2022年10月発行、3 頁:https://bit.ly/3DXEB4x [2023年2月10日閲覧]
[xl] 同上、8/9 頁
[xli] 同上、3 頁
[xlii] Cohn, Johanna 2022: Icebreakers in the Arctic: An Overlooked Environmental Concern(北極における砕氷船――見過ごされてきた環境上の懸念「仮訳」)ステディ・ステート・ヘラルド(Steady State Herald)2022年4月14日発行:https://bit.ly/3C9ZqJ0 [2023年3月6日閲覧]
[xliii] Buchanan, Elizabeth 2022:The Punishment Paradox: Understanding the Unintended Consequences of Suspending Arctic Cooperation with Russia(制裁のパラドックス――ロシアとの北極協力停止がもたらす意図せざる結果を理解する「仮訳」)、Modern War Institute at West Point(ウェストポイントのモダン・ウォー・インスティテュート)2022年10月24日発行:https://bit.ly/3lqIpEU [2023年2月10日閲覧]
[xliv] Breum, Martin 2022: Though official Arctic contacts with Russia are closed, an array of unofficial bridges could stay open(ロシアとの公式な北極協議のルートは閉ざされているものの、非公式な形での多様な橋渡し(対話・接触の経路)はまだ残されている。「仮訳」)アークティック・トゥデイ(ArcticToday)2022年10月19日発行:https://bit.ly/40LojFl [2023年2月10日閲覧]